38(連載中)
すぐに答えを出す必要はないと言いながら帰って行った二人を見送ることもせず、エドワードは一人で部屋に残って呆然と床を見ていた。
……ええと、なんだろうこれ。
頭が空っぽになってしまって、動けない。
どうすればいいんだろう。
店に出るのは嫌だから、この店を辞めると俺が言ったら、他の女性達はどう思うか。怒るだろうか、呆れるだろうか。
そしてこの店から俺が出たら、この店はどうなってしまうのか。
ハクロとキンブリーなんかに経営を任せたらあっという間に放漫経営は増長し、従業員は奴隷のようにこき使われるだろう。おそらく、この店を逃げようとする人間にはキンブリーが何らかの手を打ち逃げられないようにする。
――俺にやったように。
俺が店に出れば、その時間だけは拘束されるものの、それ以外は目を配ることが出来る。キンブリーの自由にさせずにすむのだ。
せめて、ばっちゃんの孫さえ見つかっていたら、この店を出たってかまわないのに。
一人で夜逃げすることは出来る。
弟と自分だけなら金もある。でも、この店を見捨てるのか?
小さい頃に、なにもなかった自分たちを拾ってくれて、ここまで育ててくれたこの店を、こんなこと、で。
思わず口元を抑えた。鼻の奥が熱くなって、床に水滴が落ちる。
ぐらぐらと頭が煮えたぎるのに身体は氷のように冷たい。
ぽたぽたと涙が床に落ちて、嗚咽が漏れる。
この店も、この店の人も大好きだった。
小さくて、泣いてた赤ん坊のアルフォンスを、優しく毛布で包んでくれて、頭を撫でてくれた。
何もかもを失って、あの時この店が拾ってくれなかったら、俺たちは多分死んでいた。
――見捨てられるわけがない。
それが、わかって、ただ泣いた。
「どうしよう」
言いながら、涙が止まらないのは分かっているからだ。
自分に自分はだませない。俺の心はもう決めてしまっている。
不安と嫌悪で逃げ出したいのに、動けない。あの時自分に触れてくれた優しい笑顔と暖かい腕を捨てられない。
でも嫌だ、嫌で嫌でたまらない。
同じ事をしている人をずっと世話してきたのに、そう思う自分が醜くて気持ち悪い。キンブリーの言うとおりだ。
蹲ったまま、前にも後ろにも踏み出せずただ呆然として、どのくらい経ったのか。
扉の向こうで人の気配がした。
離れなのにこの段階まで気づかないとは、どれだけ惚けていたのか。よろよろと頭を上げ、扉の向こうの人影にだれ?と声をかけた。
小さくぱたぱたと何かが動く音がし、ゆっくりと扉が開く。
「兄さん、どうしたの? なんかいつまで経っても帰ってこないからって、みんなが」
おずおずと部屋の中に入ってきた、小柄な弟が、兄にそういって不思議そうに首をかしげた姿を見た瞬間、ぞっと背筋が冷えた。
俺より身長の低いアルフォンスは、普段は学校に行きながら、この家で暮らしている。
まだ小さくて店のこともよく分かってないようで、兄としては助かってはいるが、そろそろ事実を教えないといけないかな、と思っていた。
「兄さん?」
薄暗い部屋の中では、エドワードの表情までは読み取れないのか、アルフォンスがとことこと近寄ってくる。
「どうしたの? おなかでも痛いの?」
「あ……」
そっと頬に触れてきた小さい手の温かさ。まだまだ純粋で無垢なアルフォンスは。
――あと数年で店に出せる年齢になる。
「うあ、あ、あ……!」
叫び出す寸前で、なんとか堪えてそのまま小さいアルフォンスを抱きしめた。
「うわ! 兄さんどうしたの!?」
いきなり飛びつくように抱きしめられ、胸の中のアルフォンスが苦しい苦しいと喚いているが、聞こえない。
どうして、気づかなかったのか。
キンブリーなら、やる。エドワードが従わなければ、この弟を店に出すくらい、平気でする。
ダメだ。嫌だ、それだけは嫌だ。
アルフォンスが客を取らされると思うだけで、絶望で吐きそうになる。
「アル。おまえそういえば、中央の学校に行きたいって言ってたな」
「え?」
いきなり何を言い出すのかと戸惑いの声がするが、もうエドワードは聞く気はない。アルフォンスは医者になりたいといい、そのために中央にある学校にあこがれていた。
あそこは全寮制だ。たしか六年は帰って来れない。
今まで先の話だと思っていたが、たしかあそこ少等部もある。
頭の中でどんどんと計算が進み、進学の手続きに関しての記憶を引っ張り出す。アルフォンスが何を言っても、もう無理矢理にでも寮に突っ込んでやる。
人質は少ない方がいい。
何よりも大切なのは、弟だ。
このたった一人の小さい弟を守れるなら、自分なんてどうでもいいのだと幼い日に願ったのではなかったか。
なんでもする、なんでもするから、だからどうか助けて、と赤ん坊のアルフォンスを抱いて、この店の扉をくぐった。
瞬間、パン、と頭の中で何かが弾ける。
「あ、ははは……」
一瞬にして思い出した。
あの時の小さかった自分の絶望。この店に見捨てられたら死ぬしかないと必死だった。目の前で死ねと言われたら死ぬから、だからアルフォンスだけでいいから助けて、と縋って――
あの状況に比べれば、今はなんとマシなことか。
そしてあの時、どれだけこの店が神様に見えたことか。
彼女たちはみんな女神様で、ばっちゃんは菩薩だった。
「なんだ」
頭が一瞬だけ真っ白になって、残ったのは空っぽだけど、たった一つの気持ちだけ。
「できるわけ、ねえじゃん」
この店を、辞めて逃げ出すなんて、無理だ。
だったら、キンブリーへの返事なんて決まってるじゃないか。
(終わり)
