32(連載中)
過労で倒れたとはいえ、一晩寝ればすっかり治った。
エドワードは洗濯物を物干し竿に干しつつ、手を握ったり開いたりしてみる。
外の風は心地よく、太陽の光は暖かい。
この調子なら、シーツもすぐに乾くなあ、と思うと少し鼻歌がでそうなくらい気分がよかった。
「身体は鍛えてるつもりだったんだがなあ……」
あのおっさんが、体力がないとダメだと、勉強の合間に体術まで教えてくれたりしたもので、時々やってくる乱暴な客を追い返すくらいのことはできる。
自己防衛のためにも護身術は必要だから、特に君の場合。と何度も口をすっぱくして言われる度に首を傾げていた小さいころの自分。
訓練が出来なくても、ストレッチは忘れるなとかなんとか言われていたため、日課を怠ったこともない。
だからこそ、過信していたんだろう、体力があるある、と思っていたが、どうやら医者に言わせると、精神的ストレスの方が多かったということらしい。
どうりで、寝たら治るわけだ。
……道理で、夢であいつを見るわけだ。
幼い頃の記憶だった。
相変わらず俺は、文句をいいながらおっさんに勉強を教えて貰っていて、一緒に公園を歩いてたりして、毎日が楽しくて、アルフォンスが赤ん坊だった頃。
思い出したとして何になるのだろう。胸が痛くなるだけだ。
洗濯物を全部干し終わり、縁側に座り込むと空を見た。
今見ている空は、戦場の空と一緒だろうか。
高い位置で束ねた髪の毛が頬をさらさらと撫でていってくすぐったい。
ぼんやりとしている時間はあまりないのだけれど、こうして一人で空を見ている静かな時間が、エドワードはけっこう好きだった。
「エドー」
そんな静寂をふいに乱され、意識が現実に戻ってくる。
振り返ると、シンシア姉ちゃんが軽くごめんねの仕草をしながら遠く後ろに立っていた。
「なんかハクロが来たわよ。出てこいってさ」
「……あー」
この前あいつの前で倒れたのだから一応、お礼とか言わないといけないんだろう、一応。
抱き留めてくれたのはたしかな訳だし。
渋々頭を掻いて立ち上がる。
どうせ、事務室のハクロ用椅子にどっしり座っているのだろうから、嫌だけど茶でも持っていくかと台所に向かおうとしたエドワードをシンシアが呼び止めた。
「なんか、斑鳩の間で待ってるって」
「え?」
思わず振り返るが、シンシアは来客の声に急かされ、ぱたぱたと走っていってしまって、もう姿を消していた。
斑鳩の間は、三光鳥と呼んでいる離れの二階にある客間だ。
つまり、仕事部屋である。
たしかにまだ営業時間前なので、誰かが客を取っていることはないけれど、どうしてそんなところに呼び出されるのか気味が悪かった。
嫌だなあと思いつつも、部屋を変えましょう、と主張するにしても、その為には結局そこまではいかねばならず、エドワードはしぶしぶお盆にお茶を載せると、斑鳩の間の扉を開ける。
仕事部屋は基本的に、部屋毎にテーマを決めており、この部屋の色は淡い灰色。落ち着きのある部屋にしてあるのが特色で、調度品も和式だった。
そんな部屋には椅子はなく、床に引いた絨毯の上のクッションに座ることになる。
「ああ、来たか」
「……」
ハクロはすこし重たそうなお腹を抱えて、床に座っていた。
しん、と重い空気は気のせいではない。
ただでさえ静かな離れ。その中でも他の二部屋とは場所もずらして置いてあるこの部屋は静謐だった、いつも。
正直、仕事部屋にだけは入って欲しくなかった。
なんだろう、現場のプライドだろうか。
何も知らない支配人なんかに入って貰いたくない、と女郎達も皆思っていた。
ハクロは幸いにも店の女郎達を「お金儲けできる人たち」としか考えていなかったので、店の人間に手を出したことはない。
それだけは評価できると、エドワードは思っていた。
そんなハクロが仕事部屋にいると奇妙な気分だ。まるでハクロが客で、俺が女郎みたいな気分になる。
「……お茶、足りませんでしたね」
足先から浸透してくる寒気にも似た不安に蓋をしつつ、エドワードは無表情に呟く。
盆に載せたお茶は二つ。
立ちつくしたまま、その湯気の立つお茶を眺めて、視線をハクロ達から逸らした。
この、身を切るような寒さはなんだろう。
『杞憂ならいいんだけどな』
このタイミングでこんな言葉を思い出すのがますます本能的危機の気がするんだが。
―――聞いてなかったぞ。
お茶がもう一個いるなんて。
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(終わり)
