黒の祭壇

黒の祭壇

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10(連載中)

 待合室で男が読んでいた本に興味を示したのは偶然だった。
 
 相変わらず将軍の付き添いでこの宿に来ては、二時間程度待合室でごろごろしているロイという軍人。
 エドワードの仕事の一つに、待合室の人間にお茶を出すことと、この部屋の掃除がある。
 将軍が二階に上がっていくのを確認した後、待合室で欠伸をしているロイと話すのは実は密かなエドワードの楽しみだ。
 
 職場柄、男の人と話すことはあんまりない。男の人はさっさと姉ちゃん達と部屋に消えてしまう。
 ロイの話は楽しいし、勉強になることも多い。外の世界の情報は、この男の口から得られることが多い。
 
 お茶を持って部屋に入ったら、ロイはエドワードに背中を向ける状態で、静かに読書中だった。
 男が何を読んでいるのか気になって、ついつい後ろから覗き込んでしまったのだが、考えてみたら軍人のはずのこの男がそれに気がつかないワケがない。
 すぐに男が振り返る。
 心臓が一瞬跳ねて、反射的に一歩後ろに下がった。
 男は瞬きをしながら、少し硬直気味のエドワードの瞳を、いつもの黒瑪瑙で静かに見据える。
 怒られるかと思って身構えたエドワードにかかったのは、不思議そうな声だった。
「……読めるのか?」
「え?」
「文字だ」
「………す、少しだけ」
 ろくに学校になど行ってないから、言葉は正確には分からない。だいたいこうだろうなあ、という程度。
「誰かに教えて貰ったのか?」
「いや、学校行ってねえもん。ほら、ここ新聞が届くだろ。それを読んでたらなんとなく」
「新聞だけ? 読めないんだろう?」
 畳みかけるように質問が繰り返される。
 男の顔はますます不思議そうになったが、エドワードには理由が分からない。
 とりあえず怒る気はないらしい。
「読めないけど、写真を見たらなんとなく何のことが書かれているか分かるだろ? たとえば列車が横転した写真の隣に文字が書いてあったら、ああこれが列車って単語なんだな、っていうのは分かるし」
「ああ、まあ……な」
 うんうんと男が頷くので、エドワードの調子は少しあがってきた。
「一回覚えた単語は忘れないだろ普通。だから少しずつ読めるようになってきた気がする」
「――――なんだって?」
「え?」
 さっと顔色の変わったロイに、エドワードは狼狽えた。調子に載りすぎたかもしれない。
「今、なんといったんだ君」
「……読めるようになってきた」
「違うその前」
「一回覚えた単語は忘れない」
「―――本気で言ってるのか?」
「???」
 男の瞳はますます真剣味を帯びてきたので、エドワードはだんだん怖くなってくる。理解できないことを恐怖に結びつけるのは悪い癖だ。
「だって、普通そうだろ。覚えたら忘れねえだろ?」
「………」
 違うんだろうか。だって俺の親父も一回言ったことは、絶対に忘れなかった。だからそういうものだと思っていた。
「……エドワード、君、きちんと学校に行ったことは?」
 首を横に振る。そんな時間があったら金を稼ぐ為に働いていたし、これからもそうするつもりだ。
 学校に行けと言われても、それでアルのミルク代が稼げない限り行く気はない。
 男は何故か、手を口に当ててううん、と考え込んでいた。
 アルフォンスを抱っこしたまま、なんだか途方に暮れた気持ちでそんなロイを見るエドワード。
「エドワード、君、勉強する気はないかね?」
 唐突に言われた言葉はあまりに予想の範疇を超えていて。
 頭を三回くらい白くした後、やっと我に返った頭で。
「そんな金にならないことしてどうするんだよ」
 と、言った俺は何故か男に頭を叩かれた。

(終わり)