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思えば、最後に夢で会ってからもう70年以上経っているのだ。
「はは、あんたが変な台詞言うから」
待ち続けちゃったよ。ついつい。
本当に迎えに来るかもしれない、と思ったから、こうして、老体を晒して生き続けた。
「馬鹿だな…」
何十年も封印した、涙が今更流れる。
「馬鹿だな――――――――――」
こちらに来たことに、後悔はしていない。一つだけ悔いがあるならば、それは。
「なんだ、私に好きだと言えなかったことか?」
「………え?」
きわめて普通に。
まるで何日も前からそこに存在したかのように抑揚のない立ち姿に、落ちた涙が引っ込んだ。
「…え?」
子供を抱えて、座る俺の目前に、まるで査定をするようにそいつは立っていた。
机越しにいつも、渡された書類を手にして。ふむふむと頷いたり、おかしいと叫んだり。
男は軽口を叩き笑って、いつもエドワードの前に立った。
――――――――――そんな、昔みたいに。
和風の家屋に、余りにも似合わない、いや、この世界に余りにも似合わないその眼帯。
最後に見てからもう80年以上は経つ。
黒曜石の瞳。闇を従える男。微笑みは実は時折とても優しい。最後に別れてからあんまり変わっていないように見えるその姿。
忘れていた、封印していた熱情が、数秒で鎖から外れた。
「……あ」
腕の中の子供は、眠っている。
「た、いさ」
何十年かぶりに、感情を載せてこの言葉を呟く。
男は、そうだ、と微笑んだ。
そして、エドワードの前に立った男は、眠る子供を奪い取る。
「――――――――――あ!」
流石に大切な孫のことは本能的に人の手に渡すことに抵抗があったらしい。
思わず椅子から立ち上がった俺の目の前で、男はよいしょ、と眠ったままの子供を床に横たえた。
「これで、邪魔者はいないな」
身長が、変わらない。
前と全く同じ身長差だ。こうして俺はやっぱり奴を見上げなければいけないし、あいつは俺のつむじを覗き込むように見る。
ほんの数秒で、熱病になった。
怖い。触れるのが。
又、夢だったらどうしよう。触れたら通り抜けたらどうしよう。又、迎えに行くから、と言われたら俺は後何十年生きていけばいいのか。
声は確かに側から聞こえる。耳は本当に現実としてこれを聞いている。視界は、奴を捉えて、離さない。囁きは耳でふるりと震え、鼓膜を鳴らす。
でも、あるはずがない。ありえないだろう。もう、どう考えてもあいつは死んでいる。
触れるのを躊躇うエドワードをずっと見ていた男の方が行動が早かった。
「っ、あ」
引き寄せられ、胸に頬が当たった。
ひゅう、と息が悲鳴じみた音を立てて吸われる。
「…さわれた」
じんわりと、頬から大佐の服の温もりが伝わる。窒息しそうな脳を奮い起こして、ゆっくり背中に手を回した。
縋り付くように握ると、大佐の服が皺になる。
「大佐だ」
「…長かった。やっと迎えにこれた」
「――――――――――」
その言葉には、長い旅を終えた男の、全てをどこかに明け渡した安堵感が詰まっていた。
「嘘ぉ…」
涙腺が、機能齟齬を起こして、中の物を絞り出す。
「なんで、ほんと、ほんとに?」
顔を見たくて、頭を上げれば、見下ろす男は腕の中のエドワードを溶かすように髪をとく。
「私が遅いから、80年以上もかかってしまった」
「なんで」
いや、でもそんなことはどうでもよかった。理由なんてなんでもいい、今この男が俺の側にこうしている。絶対にないと、望むだけ心が狂うと思っていた。
「だって、君に好きだって言ってないじゃないか」
言って、男は口づける。触れた唇は、初めての感触。
キスなんて、たくさんの人としたのに、一番好きな人からされたことはなかったのだ、と気がついた。
下唇を啄まれて、飽きたら又全体を塞がれる。流れ込んできた唾液とともに、舌が絡みついて、エドワードの口腔を我が物にと暴れ回った。
「ふ…」
頭の奥が痺れて、舌が生き物みたいに暴れる。
…こんなに、長い間お互いがお互いを好きだったくせに、俺達は、キス一つすらしていなかったのだ。
嬉しくて、幸福で、怖くなる。
それこそ、夢ではないのかと、常識的な理性が邪魔をする。
助けて。と思った。
信じたいけど信じられない。貪る唇は、止まらなくて、離しても何度も何度も塞がれる。体液まで混じり合ったら、さすがにこれが現実だと思うだろう、と男が言い聞かせているのかもしれないと思ったのは、すでに10回以上は唇を奪われた後だった。
「…なんで?」
幸福に酔って、脳はまだぬるま湯の中。すりついてせがむ。
胸に耳が当たるが、そこで、不思議な事実に気がついた。
「…?」
エドワードにも、誰にだってあるもの。子供達をこの腕に抱えれば、耳に響くその音が好きだ。
人は生きているのだと、実感するために一番手っ取り早く確実なそれが、見つからない。
……男の胸は心音がなかった。
(終わり)
