黒の祭壇

黒の祭壇

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8

 距離なんて、最初からほとんどない。
 背伸びして、その背中の軍服を掴む。厚い胸板に掴まるつもりで、抱きついた。鼻に当たった大佐の軍服から薄く漏れる匂いは、奴の汗の匂いだと分かったらもうたまらない。
「…ごめん」
「鋼の?」
「ごめん、…向こう臑、痛くなかった?」
 男は二の句が継げないようだった。ああ、と小さい声がする。
「なにかと思えば」
「あんたが、せっかく俺のこと考えてここまでしてくれたのに、酷いこと言った」
 身長のこと、心配されているとは思わなくて、ただからかわれているのだと思った。
 だから、奴の不安も心配もすべて放り投げて、一方的に責めた。
 ほんとうに、こどもだ。情けない。
「そうだね、たしかにかなり傷ついたよ」
「――――――――――」
 分かってはいたのに、実際にその言葉を言語として語られると、胸腔と肺が凍り付いた。
「ごめん」
 目を開けていられない。己がどれだけ酷い人間だったかを、知ってしまった。
『楽しかった?』
 中尉に言われて、二人ともそこではっと気がついてしまった。ああ、楽しかった。賢者の石とか、人体錬成とか、そういう重い旅のことなんか忘れて、たった一つの宝物を探すゲーム。どきどきしながら地図を開いて、ああだこうだと弟と考えて。
 そう言えば昔、小さい頃二人で良くかくれんぼをしたり宝探しをしたよね、とアルフォンスが言った。
 あんなに嫌だ嫌だ言いながら、結局あの時間だけ幼い子供に戻って走って悩んで、息を切らせて。
 そんなことを喜ぶあたり、そんなことを与えられるあたりまだまだやっぱり子供なのだ。
 そして、黙って子供扱いする大人を、言葉や態度で傷つけて。
 その人のために用意した箱庭、その人のために用意した置物。それらをすべて、「いらない」と俺は突っぱねたのだ。

 男は、何も言わない。もういいよ、と言ってくれるかもしれないと本当は期待していた。
 だけどそんなエドワードにとって都合のいい言葉は何も降りてこず、ますます縮こまった身体は、震えて崩れそうになる。
 そっと肩に大佐の手が当たると、ゆっくり剥がされた。
「あ…」
 子供に抱きつかれるのは、やっぱり大佐も嫌なのだ。
 痛哭したくなった。どうしよう、嫌われたかもしれない。
 男の気配を皮膚の一つ一つで判断しようと試みる。普通に話をしてくれていたから思いもしなかったけれど、もしかしたら、もう。
 両手を胸の前で固まらせたまま、顔を上げた。
 多分もう、みっともないくらいに哀願する顔をしていた気がする。この男に捨てられるのかもしれないと思うだけで、生きた心地がしなかった。
「鋼の、君はいくつだったかな?」
「え、13」
「……」
 そうだよな、と項垂れる男。
「君、宿を取ってるんだろう。もう帰りなさい」
「でも」
「帰れ」
 男は素っ気ない。肩から手を離すと、又、川の方を向いてしまった。
「大佐」
「…………」
 やっぱりまだ怒っているのかもしれない。こうして、突き放されてしまうとエドワードには何をしていいか分からなくなる。
 これからの円満な生活のためにも、大佐と揉めることは避けたいのだ。
 何より、自分の心が耐えきれない。

 どうしていいかを必死で考える。
 この男は、どうすれば怒りを収めるのか。もういい、と言って貰えるのか。人の好意を無にしたときは、どうすれば償えるのか。
「大佐、傷ついた、っていったよな」
「ん?」
 まだいたのか、と言われている気がした。じくじくと肋骨が鳴るが、軽視する。
「俺が大佐を傷つけたんだから、大佐も俺を傷つけろよ」
「…等価交換?」
 嫌味っぽい笑みが返ってきた。
「うん。何を言われても、黙って聞く」
 さあこい、と見据える。あきれ顔かと思った男は、なにか揺らめいた表情を見せると、口に手を当てて、しばし考え込んだ。
「おそろしいことをいうね、君は」
「なんでだよ!これで等価だろ!」
 だからいえ、さあいえ、と迫る。もうそのくらいしか自分に出来ることはない。これでも必要ないと言われたら、これ以上の手出しできなかった。
 男の指が伸びてくる。ごくりと息を呑んで、目を閉じた。
 ひょっとして、なぐられんの?
 それは予想していなかったが、それも仕方ないのかもしれない。
 顎に手が触れ、持ち上げられる。頬に衝撃が来るのに身構えると、それは唇に降ってきた。

(終わり)